インセンスの代わりに

邪道かもしれないけれど、夜の焼香はアロマにすることにしている。相方がいやがるのと、この季節流石にエアコン無しではやってられない季節になってきて閉めきった状態になるからだ。

個人的にはサンダルウッドがやっぱり落ち着くのでいいのだけど、気持ちが疲れてくるとそれなりの香りを選んでしまうものだ。そんなこんなでティートゥリー+ゼラニウム+柑橘系にしていたり。

焼香は精進を意味すると習っているし、温める為にロウソクであぶるわけで、智恵と精進の一石二鳥。

賛否両論ありそうだし、結局自分を見つめる意味もあるなら、電池でLED(まさに智恵の塊ですけれども(笑))の無味乾燥な選択肢よりかは心を込めてそんなのもありかと。

さて、今日はどんな香りにしようか?そんな遊び心ですんまそん。

 

奇跡で必然

キリスト教徒かでよく言う神秘的な偶然が降ってくる事を奇跡と言うけど、仏教の場合ってどうなのだろうと。

個人的には現状全てが奇跡で有り必然だと思う。偶然に会った因を現在に導いているわけで、その偶然の積み重ねのより合わせとして縁で、目の前にある事が望んだ事であると同時に、過ごし方次第でそれを更に因として縁となる。未来雑乱住。運の悪さも同時に発動して行く先々のお店は「休み!」信じられないほど!おいらのレジェンドにまた1ページを飾るほどすごい悪いくじ運でした(笑)それでも楽しく幸せで。

・・・全身で感じる思いは・・・不幸ではなく・・・なんというか、ただただ新鮮だった。こういう風に不幸すらも全身で感じて喜べたなら、多分、きっと、幸せなんだと思う。

戒清浄、波羅蜜清浄、六根清浄・・・文殊の智恵と観音の洞察力と普賢の菩提心、保ち続けられるようになれるようになりたいと思う日でした。

まずはどんなことでも笑えるようになる事かもしれないなぁ、私にはこれが一番足りないかもしれないです。

薫習

「渇愛」が「再生」的な意味であると言う事をつい先日教えて戴いてすっきりしたのだった。
元々私が仏教を一旦捨てたのには「一切皆苦」であった。
全ては苦痛というのは実際人として生きていて、一瞬すごく楽しかったり嬉しかったりという時間がある事自体「苦」ではないし、それを思い出になった瞬間から、思い出している期間というのは楽しいわけで「苦痛」とは言い難いわけで。

そんな私を仏教という学びの世界に呼び戻したのは、父との出来事だった。たまたまその日休みで、朝方大騒ぎして母に連れられて父は出かけて行った。父の死の前日まで大げんかして、怒りやまぬ私自身は心中「もう帰ってくるな!」と思ったわけで、そのまま本当に帰らない事になるとは思いもよらなかったわけだ。
取り返しのつかない思いにかなり凹んだのを覚えている。

人は「苦痛」を受けると五段階の心理状況に追い込まれていく。
元々「死の受容モデル(臨死5段階モデル)」という精神科医キューブラー・ロスが科学的に捉えたものである。
(1)否認(孤立);(2)怒り;(3)取り引き;(4)抑うつ;(5)受容。
このモデルは死に関してだけではなく、怪我をした選手から、恐らく、不測の事態におかれた時、人間誰しもが陥ってしまうであろう心理課程とも言えると思う。(詳しくはgoogle先生に聞いてもらって・・・一つだけ参考までに「スポーツ障害における心理サポート」→「2,怪我による心理的影響」)
これを紹介したのにはあの時の心理状態を追ってみると、多少なりともあたっているし、近々の事もやはり心当たりがあったりするわけで。

更に仏教だと「十二因縁」と呼ばれるモデルもあるけど、後半「愛-取-有-生-老死」に似ていると思えなくもない。

仏教に言う「苦」は刹那的連続性(時間)の中で「不安定」という意味で、寧ろ「諸行無常」と言っているんではないかと私は思っている。つまり「一切行苦」。こう思ったときスッキリ受け入れられた言葉の一つであったりする。

人間は残念な生き物で刹那刹那の連続性を時間と空間として認識してしまう。本当はただの連続した「空間」なのだと思うが。これが一つの欠点なのだろうし、刹那を完全に受け止める事もできないわけで。

まごまごしている刹那に当然、「無明-行-識-名色-六処-触-受」が起きてしまう。既に「識」の段階で好きとか嫌いとか識別作用が生じて、怒り乃至負の感情を生んでしまっているわけで、構造や何かを知っていようがいまいが、また同じ失敗を繰り返してしまう。そう、「あ」っという間に「う~む」と呻る結果になるわけでいかんともしがたい。つまりは「再生」で始まりが終わりで「再生」が繰り返されてしまうわけですわ。

そんな今日は仏滅なので勤行お休みするデーに決めてるんです( ̄ー ̄)ニヤリ おやすみなさい。

記憶

記憶には科学的に必ず通るルートがあるんだそうで。
最初は、記銘(符号化)、保持(貯蔵)、想起(検索)、そして忘却。
初っぱな「ロゴス」ですよね~。
「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」( ヨハネによる福音書1)
お大師さんも「五大皆有響。 十界具言語。 六塵悉文字。 法身是実相。」て言ってますよ。

公開にあたって

実のところ、ページは作ろうとしていたところで家庭内LANの内部サーバにお試しサイトを作っていたのでした。
で、何を書こうか・・・という事は最初にある程度決まってきていて、経書儀軌などにある漢音写した真言をデバーナーガリーで書いてみるということでした。ただ公開する事に躊躇した、という本音があり、人によっては扱って欲しくはない分野であって「神秘」のままにしておいた方がいい場合もある。
お大師さんを思えば、久米寺で大日経に出会って、真言を学びたいと思って、無名の沙門が志那まで学びに行かれた訳で、伝説的であってサクセスストーリーであって物語はきれいに描かれている。そこにはすごい苦悩の連続であったはずで茨の道であったことは想像に苦しくなく、だからこそ大切にしなければならない思いもある。
ただ、それが単なる神秘主義で終わってしまうのは、お大師様が残した文章を見ると何か違うようにも思えてならなかった訳で。調べれば真言陀羅尼は載せているサイトもいくらでもあって何だか解らないけど「願いが叶っちゃうんじゃ?!」な信心や思いを否定するつもりもなく。

陀羅尼は総持といって「記憶して忘れないこと」を意味する事は調べるといくらでも出てきますし、それは決して「頭が良くなっちゃう」訳ではないのでは?とも思えてます。信じて虚空蔵菩薩真言を一洛叉ほどやった時期もありますし、もっと直接的に宝生如来真言を十洛叉なんかも試したりしました。けれどもちっともお金持ちにはなれませんでしたし、頭も全然よくなりませんでした(笑)。「修行してないからだ~」(と言われればその通りです)だけではなくてもっと何か言葉では言い表せない何かがそこにあるのでは?と気づくには十分でした。
「心」の事であれば「唯識」が重要で最初は何だか解らないけど読んでみるのも有りだと思いますし、世の実相なら「倶舎論」なんて素晴らしいものもありますし、私のように御大師様フリークなら「何で?」と言う疑問が出来たら是非「吽字義」や「声字実相義」読んで気がついてみるのも一興なのかもしれないです。

大金剛輪陀羅尼

大金剛輪陀羅尼というと有名な陀羅尼の一つですが、宗派によっては読みも違うそうで、経典にもその違いは様々で、ポピュラーだけど、いざ訳そうとすると大変難儀な陀羅尼の一つであると思われる。

①「阿閦如來念誦供養法」金剛輪真言

नमस्त्रिय ध्विकानां सर्वतथागतानां आं विराजि विराजि महावज्र सतसत सरते सरते त्रयि त्रयि विधमनि सम्भञ्जनि त्रमति सिद्धाग्रिय त्रां स्वाहा

②「大輪金剛修行悉地成就及供養法」大輪金剛真言
नमःस्त्रिय ध्विकानां सर्वतथागतानां ओं विराजि विराजि महाचक्रवज्रि सतसत सरते सरते त्रयि त्रयि विधमनि सम्भञ्जनि त्रमति सिद्धाग्रिय त्रां स्वाहा

③「佛說大輪金剛總持陀羅尼經」爾時世尊即說身呪

नमःस्त्रिय ध्विकानां तथागतानां हूं विराजिविराजि महाचक्र सतसत सरतेसरते त्रयित्रयि विधमनि सम्भञ्जनि त्रमति सिद्धाग्रिय त्रां स्वाहा

④「佛說大輪金剛總持陀羅尼經」大輪金剛陀羅尼心真言

नमोस्त्रिय ध्विकानां तथागतानाम् ओं विराजिविराजि महाचक्र वज्रि वज्र सतसत सरतेसरते त्रयित्रयि विधमनि सम्भञ्जनि त्रमति सिद्धाग्रिय त्रां स्वाहा

漢音訳→発音記号→デバーナーガリーという手順で、音写については「真言陀羅尼(坂内龍雄著)」の発音記号に依った。他にも「真言陀羅尼(坂内龍雄著)」によれば13種あげられるという事で、漢字音写も経典により様々でキリがなかった。

典拠元は不明だが手元の資料に依っておこすと以下となる。

「普通真言蔵(浄厳和尚編 稲谷祐宣校注)」大金剛輪陀羅尼

नमःस्त्रिय ध्विकानां सर्व तथागतानाम् अं विराजि विराजि महाचक्र वज्रि सतसत सरते सरते त्रयि त्रयि विधमनि सम्भञ्जनि त्रमति सिद्धाग्रिय त्त्रां स्वाहा

「中院流の研究(大山公淳著)」大金剛輪陀羅尼
नमस्त्र्यध्विकानां तथागतानां अं विरजि विरजि महा चक्र वज्रि सत सत सारते सारते त्रायि त्रायि विधमनि सम्भञ्जनि त्रमति सिद्धाग्र्य त्रां स्वाहा

「普通真言蔵(浄厳和尚編 稲谷祐宣校注)」版は梵字をそのまま発音記号に変えている。

阿閦如來念誦供養法 大輪金剛修行悉地成就及供養法 佛說大輪金剛總持陀羅尼經 觀自在大悲成就瑜伽蓮華部念誦法門 甘露軍荼利菩薩供養念誦成就儀軌
{नमः|नम} 娜麼 曩莫 那謨 娜莫 曩莫
{स्त्रिय|स्त्र्यि} 悉底[口+頼](三合)野 悉底哩也(四合) 娑哆梨耶 悉底曳 悉底哩也
ध्विकानां 陀(=地)尾(二合)迦(引)南(引) 地尾(二合)迦(引)喃 地婆伽喃 墜肥(二合)迦南 地尾(二合)迦(引)*南
सर्व 薩嚩 薩嚩 薩婆
तथागतानां 怛他(引)誐跢(引)南 怛他(引)蘖哆喃 怛他羯哆南 怛他掲多南 怛他(引)孽跢(引)南(引)
{आं|ओं|हूं} 暗(引) 唵(引) 鳴䙖
विराजि विराजि 尾囉爾 尾囉爾 尾囉爾(茲以反)尾囉爾 毘羅時毘羅時 肥羅耳肥羅耳 尾囉爾尾囉爾
महाचक्र 摩賀(引)(斫迦囉) 摩賀(引)作訖囉(二合) 摩訶斫迦羅 摩訶皤折哩 摩訶斫訖囉
वज्रि 嚩日囉(=哩)(二合) 嚩日哩(二合) 嚩日哩(二合)
सतसत 娑跢娑跢 娑哆娑哆 薩哆薩跢 薩多薩多 娑跢娑跢
सरते सरते 些(引)囉帝 些(引)囉帝 娑(引)囉底(丁以反)娑囉底 莎羅帝莎羅帝 娑囉諦娑囉諦 娑囉帝娑囉帝
त्रयि त्रयि 怛邏(二合)異 怛邏(二合)異 怛囉(二合)以怛羅(二合)以 哆羅曳哆羅曳 帶㘑帶*㘑 怛囉(二合)以怛囉(二合)以
विधमनि 尾馱麼儞 尾馱麼儞 毘陀摩儞 尾馱麼儞 尾馱麼儞
सम्भञ्जनि 三畔若(=惹)儞 三(去)畔若儞 三盤禪儞 三伴闍儞 三畔惹儞
त्रमति 怛囉(二合)麼底 怛囉(二合)摩(上)底 怛羅末儞 多囉摩底 怛囉(二合)麼底
सिद्धाग्रिय 悉馱(引)仡(二合) 悉馱(引)儗哩(二合)曳 悉陀羯梨 悉馱刈囇 悉馱(引)儗哩(二合)
{त्रां|त्त्रां} 怛嚂(二合) 怛囕(二合) 怛焰 底哩養 怛囕(二合引)
स्वाहा 沙(=娑)嚩(二合引)訶(引) 娑嚩(二合)賀(引) 娑訶 莎嚩(二合引)*訶 娑嚩*(二合)訶

相違の経典があれば更にそこから引っ張ってみたいと思う。そもそも漢音に音写されたものを改めてサンスクリット(ここではデバーナーガリー文字)に戻そうとするのでかなり無理があると思った。また、当時を鑑みると印刷ではなく書写して複製していった課程を考えると誤字脱字もあり得たわけしょうし、そもそもそれよりも訳者の考えもあったであろうし、何よりも現代まで残っている事が頭の下がる思いしかないわけです。

about policy

書くにあたってある程度ポリシをある程度決めておくこととする。

  1. 読み仮名(ひらがなカタカナなど)は解釈段階で不要な場合は読みを提示しない。
  2. 名称を除き儀軌や経典にあっても解釈段階で不要な場合は印相などについては提示しない(名称を除く)。
  3. 「括弧について」漢字で表現の際、一文字を複数の文字を用いて表現するには[角括弧 半角]を用いる…参照元表現にあわせる為。
  4. 「括弧について」漢字で表現の際、合字や読みや区切りを表す記号群(○合 引 等)一文字を複数の文字を用いて表現するには(丸括弧 半角)を用いる…参照元表現にあわせる為。
  5. 「括弧について」3と4の条件から変換した文字や語句で複数の可能性がある場合は{波括弧 半角}で示し、更に複数の選択に併せて”|”パイプ記号で区切って並記する(+色を変えるようにする)。
  6. 「括弧について」加えられている句或いは足らない字句は〈山括弧 全角〉で括る。
  7. 3~5については引用の場合を除く。
  8. 参考資料については、出典元を可能な範囲で記載。

浅学故「一応梵字読め(ると思い)ます」程度でしかないので、私見はあえて書かない方が良いであろう。そこから先は私には知り得ない「事柄」もある。儀軌や経典をあたるのも、実際には苦し紛れに括弧書きなどで補足しようと試みるつもりだけれども、梵文が伝わっていない・入手不可能なのものもあり既に「試み」より挫折している部分もある。

そもそも悉曇梵字など真言・陀羅尼を通じて勉強(梵字やサンスクリット(及びデバーナーガリー文字))の為なので、必要以上書く(電子文章化する)ことを憚られる。個人的には真言・陀羅尼について興味のある事柄もあるがあえて触れないことも必要と感じているためでご了承願えればと思う。

補足するが読みに関して一ついえるのは「師」から習ったのが「正」で、読みは教えてくれる先生を探して習うのが良いと思う。「秘密」の部分は口頭でしか聞けないものもあり、正確に伝わらない事がわかっているからこそ、口伝としている事情ものめる。聞いた口伝は記載もしないし、知らない事とする(なのでそのほかは私見に近い、そうでないものと区切るのも難問だけれども)。こういう様々な事情から基本的には文章化・文字化されているもののみを扱うこととする。

about author

書き手(ハンドル):「せ゛ろ。」「ZeR0」

「空」は、「空性(名詞形 शून्यता, śūnyatā)」、「空(形容詞 शून्य, śūnya)」だそうで、そのशून्य(śūnya)はインド数学における「0(ぜろ)」がなんだそうで。

ひらがなで「せ゛ろ。」は「濁点(゛)」が一文字「句点(。)」が一文字で計四文字です(笑)。ハンドル「ぜろ」さんは無数にいますがハンドル「せ゛ろ。」さんは多分探すのが(特に入力)困難です(笑)

ローマ字では「ZeR0」、たまにいらっしゃいます:-)。多分考える事は一緒で最後の「0」は数字の「」で、「O」(大文字オー)ではありませぬ。数字や大小文字が混ざるのは「煩悩まみれ」の証拠です。けれども「オー」がないので、「おっさん」呼ばないでください(笑)。

SNSはゲーム用途ぐらいでしか使ってませんので割愛、ツイッターは今現在使ってないので放置。

ライフワークは「佛教」で「佛教は哲学」が信条です。特に密教よりだと思いますが、禅もイイですね(カッコイイって思います)。おうちは浄土宗でした。 「沙弥」です。リアル、禿げそうですがまだ禿げてまてん(笑)。但し家族には宣言してあります「禿げたら剃るから、おしゃれボーズになるから!」.。o○(「見た目怖いから」おしゃれになはれないとツッコまれています(;´∀`))

折角大乗なのですから「郁伽長者所間経」や「優婆塞戒経」で言うところの在家菩薩行が可能なのか模索しています。経書を右から左にというのが主になります。故に、公案のように、読み手で考えてもらうのがスタンスにどうしてもなってしまいます。私見は出来るだけ書かない方が良いのかとも思いますが、答えは一つではなく、微妙な匙加減のある事が殆どでお許しの程を(出来るかな?!)。特に弘法大師(空海)や個人的に承陽大師(道元禅師)のフリークです。

  • 小欲 自由な時間(余裕)が作れるようになりたい、資格が欲しい、美味しいもの食べたい、(精神的)贅沢したい。その他色々。
  • 大欲 「覚悟」して菩薩道。目指せ「十牛王図」。みんな(今はまだ私自身とその周りの人々)が幸せになる事。

本名は下手すると旧姓とか説明しなきゃならないのと、なんせ「沙弥」ですので当然ながら生業(お仕事)は別でして、面倒ですんで、「捨てちゃいました」ってことにしてください(笑)。多分殆ど表に出て来なく、プライベートヽ(´ー`)ノマンセーな人です。複雑怪奇な世の中で・・・統合できる日が来るとイイと思ってます。小欲知足なエコな人生を目指したいと思いますが難しい[壁]があるようですね。

9月6日

1ヶ月前のこと
その日学校の期末試験の最終日だった
前日明け方まで勉強し、さすがに疲れて寝入ったのは4時回ってたろうか。
私はひとつの夢を叶えるため今は鍼灸学校にの夜間に通っている
夏休み開けに期末試験というのは学校でもはじめての試みだったらしい
この夏も異様に暑かったが私の部屋は冷房入れても30度越える部屋。下手したら45度軽く越える。かといって節電の昨今夜中は冷房はタイマーで消して寝床に入っている。
夜中遅かったのもあって朝起きたら勉強しようなどと思っていた。
あんなことにならなければ…..

11時回ってたろうか。
パチパチする音で目が覚める。焦げ臭い匂い….
身体を起こして視線を音へ向ける。カーテンの隙間から入る光りは青い。その間からオレンジ色の炎が浮かび上がっているのを気が付くのに時間はいらなかった。

皆の帰る家を守りたい….一心で簡易消火剤で火を消しにかかる、一旦落ち着くも下からあがる炎、人間の力なんて無力だ。水をかける、嘲笑うかのように立ち上がる炎。
近くに転がっていたPHSで119番…掛からない。階段を駈け降り消火器をさがす。
固定電話からの119番。通じない。
手詰まって行くなか、他の力を借りるしかないと感じる中、外に出る準備をして火元を確認しに戻る。

まるで映画の1シーンかのように真っ黒な煙の壁が立ちはだかる。漏れた煙をちょっと吸い込んだだけなのに息が詰まってむせかえり暫く息を吸うことすら出来ない。悶えながら玄関に向かう。
表に出て助けを呼ぶ。平日の昼間答える人影なんてまずない。
二度目の「誰か119番、消防車呼んでくれ」、そんな叫びに、呼応するかのように近所で工事に来ていた人の姿が目に飛び込んできた。私の血相に流石に状況を察してくれたのか携帯ので緊急通報、住所を伝え、燃える我が家を横目に後はただただ立ち尽くしてた。
こういう時の時間の流れは遅い…長く感じられ、再度PHS で119。今向かっている。遠く離れた所からサイレンの音は近付いてくるが、家の前は意外と細い、大きな車は入りづらい。離れた十字路に一台の車両。祈る思いだった。目の前で起きていることが夢であって欲しかった。
バチンバチン、音が怖かった、何もかもが焼けてしまった。
翌日、現場検証、誠意をもって知り得ることを伝えたつもり。幾度となく同じ内容を伝え、ショートした電源コードが見付かった以外は原因は不明なままである。私に過失はないと言うことで検証の幕は閉じた。

悔しかったのは一生懸命守ろうとした気持ちを裏切るかのような、犯人扱いな言葉を言われていること、実の兄にだ。

焼け残って出てきたのは得度式で頂いた焼け焦げた袈裟と僅な鍼灸道具、そして何よりこの身体。多分、今後の道筋を物語っているかのように今は目の前に集中しろ、と云われているかのようだ。最終日の試験は赤点、追試は通らないで有名な教科であり、結果をまたずに膨大なレポートを予測している日々だ。
学校からは早々に教科書を準備して頂き、周りの方の好意で足らない授業で使う鍼灸道具を集めていただいて、何とか学校には通える状態だ。
彼女に貰った財布は焼けてしまったが、思いや心はしっかりこころに焼きついているし、色んな意味でダンシャリになったのかもしれない。

そして何より、まずは
生きて帰りました
ただいま

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mixi日記より移植