縁起偈

昨年末書いていた(実は今年も続いている)縁生偈とか法身偈とか縁起法頌とか呼ばれる「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」の梵文ですが書きっぱなしで何もしていなかったので。

ざっくりとアッサジ尊者がシャーリプトラとモッガッラーナをゴーダマ・ブッダ(お釈迦さん)に縁づけた詩句ともいえます。何度も読み直して調べて(書写の段階でいくつかミスも見つけたりと四苦八苦している中で(笑 おおげさだな)←自分)みてまして、おそらくウィキペディアに記載されているのは間違えないと思われますので、大雑把に知りたいかたはそちらを参照していただくとして

ये धर्मा हेतुप्रभवा
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत्
तेषां च यो निरोध
एवंवादी महाश्रमणः

元々伝えられているのは説話的にもパーリ語(の経典)だと思われます。よってデーヴァナーガリー表記は「どうなんじゃろか?」というところでしょうが、梵字大鑑(種智院大学密教学会編 法蔵館)にも梵文が載っていまして、ある程度昔から認識はされいたのか現代でも研究されるモノなのでしょうか。ただ、漢訳の偈頌が「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」が仏塔に仏舎利代わりに納められる使われる以外にあまり聞かず・使われず読まれるとしても漢文だと推測できますので、この日記にては日本においての梵文の縁生偈を他の真言陀羅尼とは扱いは別とし読みもかいてしまいます。ありがたいことに日本以外では真言化された形跡法身偈の真言化について)があったりします。パーリ語原文は法楽寺さんの「法身偈」に詳しく載ってましたので読んでいただければ敢えて説明もいらないかと・・・むしろそのページで勉強させていただいたぐらいなので。

ये धर्मा हेतुप्रभवा 諸法は縁(因)より生じ(諸法従縁生)
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत् 如来はその因をお説きになった(如来説是因)
तेषां च यो निरोध (また)それらの滅も(是法従縁滅)
एवंवादी महाश्रमणः それが大沙門の教え(是大沙門説)

一行一行各々だけだとほぼ意味がバラバラになって、前節を受けて形容修飾されていくような文章で「うん、漢訳はよくできてるな」というところでした。「諸法は縁(因)より生じ、 如来はその因とそれらの滅をお説きになられ、それが大沙門の教えです」という感じでしょうか。

十二縁起を説いたという説もあるそうなんですが、まだお釈迦様の悟られて初期の教説を表現したのであろうから根本の「四聖諦」での縁起「因」の事だろうか。この再会した五比丘(アッサジ尊者はその内の一人、最初は王命を受けた政治的に送られた五人だったんだそうですね)との間で説かれた初転法輪で、快楽主義と苦行の否定で中道を示し、苦の五取蘊を説き、実体化として渇愛執着の様として集諦を説き、無我相を通じて滅諦と八正道の道諦を説かれたということになっていいます。四聖諦の内容といい文字や単語だけ先行して浸透していますが、6年も一緒に苦行した仲間でも合宿形式だったということで文章で表されただけの内容より遙かに濃い内容だったのでは(苦行を共にした友との内容分がそこにあったのでは?)と思っています。書いたら数行ですけれども。

読み方はウィキペディアにもIAST表記で書かれていますが、無理くり読んでひらがなにすると、

ये धर्मा हेतुप्रभवा (えい だ らま けい と はら ば ば)
हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत् (けい とん ていさんたたぎゃときやばだた)
तेषां च यो निरोध (ていさんしゃゆにろだ)
एवंवादी महाश्रमणः (えいばんばぢまかしらまだく)

(梵字大鑑 種智院大学密教学会編 法蔵館 上巻P.432~)

さらには、上で触れた「法身偈の真言化について」に依って(実は「梵字大鑑」もこれを典拠元にしている)私ならばこう読みやすくして(少しなまると)

なーも (あ)らたんのーたらやーや
おん
いぇー だるまー けーとぅ はらばんう゛ぁー
けーとぅん てーさん たたがとー きやう゛ぁだっ
てーさん しゃ よ にろだー
えぃ う゛ぁんばぢ まかーしらまーだく
そわかー

と、こんな感じだろうか?(笑)。よみなど普段は提示しないので、書いてて新鮮なのだけれども、そもそも日本では漢文の偈頌で、習慣的に梵文で読まれないのだから好きに読みやすく読んでみればよいと思います(誰かと読み合わせするわけでもないので)。

ありがとうございました

https://www.tnhjapan.org/

真摯に向き合うそのお姿はどこか優しげでしんのとおった方だったのでしょう。
御著書など読んだことはありませんが、私には「心と体の健康と癒しが足らない」のだと改めて気づかされました。「犀の角のようにただ独り歩め」と背中をおされたきもします。合掌

 

欠失

歯が抜け落ちて失ってみると、結構学べることがあるのに気がつきました(実は昨年末の事)。数年季節の変わり目に鼻の奥がぐずつく時に前後してか歯茎まで腫れることが多くなってきたなぁと思っていたのでした(要は歯根嚢胞で”その内抜歯対象”の様な状態で結論として大事に使って10年は保ったわけで)。

昨年末、暫くはジンジンしていたんですが、朝起き掛けなど「無い」ということを認知するんですよね。患部のジンジンする感覚や口腔粘膜や舌の触覚やだったり、(そもそも四肢などを失ったときなどの幻肢痛等のように担当していた神経(脊髄神経など中継役がいるわけではなく)が宙に浮いた状態になるわけではないので比べものにならない「へ」にもならない話とはいえ)、そういう触覚の束が自我の肉体を認識する過程に含まれていて、仏教的には「六処~触~受~愛~取~有~生~老死(欠失による苦)」への流れと「無明~行~識~名色」への流れ・・・狭義の意味の「触」により起きる(特に)「受蘊」と「行蘊」の観察がよーっくわかりました。服の擦れる肌の感覚や体毛に接触して生じる触覚、こんなことで「我」の『殻』を作っているわけで、確かに『真我』と勘違いしやすく永遠にたどり着けない迷宮行きとなるわけですね。その一瞬のなんでもない「当たり前」の感覚が「あなた(私)」を形成しているというその一瞬と、そして全く以て思い通りにならないから「失った」「元には戻らない」という事実(認知)もまた、「うわ、くっだらねぇ(と私は思っているけれども神秘でもありすっごいことでもあります)」というその一瞬がよーっくわかります。

舌でペロッと感覚を認知するとき、普段は意識はしなていないだけで、常に認知を次々としていく中で「無常」な部分をピックアップして覚知するわけです。記憶されている認知(「無明~行~識~名色」)もシンボリズム(種子)ですから、結局それがたまっている阿頼耶識に肥やし(蔵と種子)になっていますよね。言い換えれば「条件づけ」の一つで「ものごと」は形成されていますが、そもそも「思い通り」&「記憶と一緒」&「たよりにしているもの」=「常に有る」な事がそもそもの「間違い」で「変化している(苦)」ことが正常とでもいえばいいんですかね。その中でも「我」の覚知・認知はやっかいで結局絶対になくならないであろうし(無分別智でも分別はできるそうで、そこから考えうるに)否定してもどうにもならないので、観察して注意して自覚して三毒(貪瞋痴)か他者を煩わせるものかを照らし合わせていく必要があるのであって、喜悦後に顕れる「一境性」をどう保つか(要はニミッタ出現後の十分な三昧に入った状態の話で)、もし保てないなら(お釈迦様が)、思考をどうやって調伏していくか、な・・・「我」を知覚して分別が始まる瞬間を注意して気づいて「触」が起きた瞬間「行」自覚してあげると自動思考の暴走を止めることが可能ということだけが残っていくわけでした。

視覚から妄想が起きている場合など「色」と「念(サティ)」を入れてあげると、妄想の呪縛から解き放たれるので、よく「念(サティ)」を活用するワケですが、適確な「キーワード(シンボリズム)」・モノならなんでもいいと思う、・・・私の場合は「色」=「糞袋」的なところがあるので、視覚的な囚われなどから離れるときに有効な「キーワード(シンボリズム)」であればなんでもいいと思うし・・・繰り返しでも適確なのが見つからないときは有効だと経験しているし、四聖諦に則れば「触」を滅して「行」を滅していくとなると、「念(サティ)」を入れる事がベストなやり方なんだと思えてきますので、六境(十八界)の早い段階であればあるほど次のフェーズの入り口(門(生門))で断ち切ることができるのではないかと思えます(「簡単」な「生き方」ではないですけれどもね)。少なくとも日常では殆どは認知評価方法が変わるのでワンクッション反応の遅れて認知していくわけですが、結局はそれを享受するしかなさそうです。

ちなみに、呼吸に注力して身随観・受随観・心随観とすすむ内にできあがる身体のイメージは、成就法のヤブユムそのもので、明妃の顔の位置は瞑想時の集中する視点で、知覚する余地である仮に最低限の「記憶」と「智慧」にをそこに残しておくようなイメージでその明妃の身体は呼吸している空気を追ったとき仮によく言われる「プラーナ」とか「気」だとかだとすると納めていく位置に相当します。こういうやり方になったのは法随観に入ったときに思考停止まで起こしてしまうという結果から試行錯誤の末です。最低限の情として自分をも大切にする慈愛もそこに置くイメージなので、明妃の頭部はいろいろ詰まっていますね(笑)。そこから、例えて客観的思考で「我」を眺め観察し注意して「念」を入れます。

インドタントリズムの影響で後期密教では明妃の事もダーキニーというそうで日本ではそれほど流行らなかった緑度母(グリーン多羅)にも喩えられ、漢訳で「空行母」というそうで、少なくともあなたの2D or 3Dのリアルの本意の「女子」ではないことが解ります。「プラーナ」とか「気」だとか幻や炎の如く「空」を集めて形成した「行」の生み出す源としてパートナーという「母」の概念上のイメージがダーキニーの正体でしょうね。日本の確定したダーキニーの概念としてのお稲荷さまなのですが、ちょっと失礼無礼に当たりそうで荼枳尼天と呼びたくはないのですが、少なくとも私が習った内緒のこととして例えると「曼荼羅を身体に構築する」のであるならば、こういうパートナー的な意識の仮置きという暗喩なのだろうと思うのでした。

理趣会曼荼羅の触金剛女(計里計羅金剛)が何故「抱金剛薩埵」の印をする(「五秘密儀軌」)のか、別名に「金剛喜悦」というのか、そもそも何故女尊が金剛界曼荼羅にいるのか自然な形として自然な営みを模して他人に訴えかけるか探求して土台として練った結果、後期密教で成就法の「ヤブユム」の姿として描かれるようになったのだと思えます。所謂「性的タントラ」という意味では決してないのが垣間見えた今日この頃です、「あぁそういうことか!」と手を叩く感じで納得しました。また日本では歴史的に権力からの追及もありますし性的な意味に思われないように必死に方便を重ねた結果こういう形になったが、十七清浄句だけは残ってしまったのでしょうね。

さて、タイトルの「欠失」ですが「欠損」や「損失」のように「損」あったっけ?ということで言葉遊びをしてみました。

諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説

法身偈といいます。

上は私の書した物ですが、私の考案(意匠?)ではなく、宇賀芳樹先生の作品を真似てコツコツと梵字の練習のものです。法身偈が如意宝珠なこともそうですが、実はよく読むと、「अ(阿)」「वं(鑁)」が二つの玉の真ん中一文字目に来るように組み込まれていることは少し感動した作品だったわけだったりします(17文字目「हय」の内母音符「अ」を除いた子音字を作って、「अ」字を独立させてある)。パソコンあれば台紙なんて簡単に作れてしまいますから、それはこっちにおいておいて、ここ数ヶ月練習書きしているものだったりします。

ほしい方は。。。私のではなく上の是非、宇賀芳樹先生の作品を入手されてくださいまし!。

それもこっちにおいておいて。

新月の日より満月の日に結願と勝手に決めて練習してその後小一時間坐ってということしつつ、この数ヶ月結構書きためてしまいました。まぁ、本職ではないですし、毎日墨すって書くだけの元気はないので(片手間にやっているので)筆ペンで、まぁ期待通り「コシ」がなくふわふわした感じなのは載せるのはちょっとなぁと思うところでした(笑)。

こんなんもそっちにおいておいて。

兎にも角にも「皆さんに(平等に)幸せが届きますように」と思います。

su

MSYS2とWindows Terminal使っている方ならば、.bashrcにaliasで入れておいておけばよくないですかね。

alias su="powershell start-process wt -verb runas"

コマンドから管理者モードでWindows Terminalを起動する

Windowが新しく立ち上がるのが美しくないとか聞こえてきそうだけど、どっかの誰かがもっと美しいやり方でも見せてくれるまでのつなぎで。

「?」

お怒り・お叱りマークですね。もしかしたら単なる文字化けかもしれませんけれども(一応括弧で括っておいた)。別に怒ったりしているわけではないんです。ただ、とてもひらめきました、その印だったりします。

あれから相変わらず大乗経典なぞどうでもよくなってしまっていて、ふと手に取った本(といっても大乗の思想なんですがね 『ゴータマ・ブッダ その先へ 思想の全容解明』(羽矢 辰夫 著[春秋社]))にやられまして、単語が入ってこなくなっちゃいました。入ってこない単語というのが、サンカーラ(Saṅkhāra)=行です。調べれば調べるほどこれについては訳わからないことが書いてあります。”作り上げられたもの、作られたものの因、作られたものの結果、作られるもののプロセス、条件付けられたものはすべて「行」という”なんのこっちゃ、というところですが、上の本では「自他分離的自己形成力」とか表現していて、あぁと腑に落ちる表現だなぁ、けど、余計入らなくなってきたと。悩んでいる事柄自体はどうにもならんしどうにかしてどうこうするしかないわけですが、内容自体はどうでもよく客観的に見ていると、その一瞬で「我」が成立しているのが見えてくるんですよね。よーく観察していると、「我痴、我見、我愛、我慢」一瞬かつランダムに四煩悩に繋がって記憶へ縁起するというか接触していくというか引っ張り上げられるというか表現できないんですが、ずーっとこれが表現できないでしたんですが、それを「行」というと簡単なんですね。束ねて形成してしまう。「五蘊」とか言って、また別にもまとめてましたけど、「蘊」の字は草冠(艸)に「」=繊維なんですが形変われば布絡んだままで綿の様にこんがらがってしまいますね。その本書いた著者も相当に困ってしまっていたんだと思いますし、私には腑に落ちたのが、それが「?マーク」、「行」という象形文字でした。イメージでした。ひと文字で組合・ギルドなんて言う組織の意味もあるんですね。で、やっぱり、龍樹は「戯論」という言葉による形成というポイントを突いていたわけで、「我」が定まると確定すると途端に他が分離されて、事象が形作られていくんですよね。ごちゃごちゃと、バッカみたい、けれど現実に何にも解決しないけど(笑)。大師も「五大皆響き有り十界に言語を具す六塵悉く文字なり法身は是れ実相なり」と言ってますわね。万事解決です。

ちなみに、「六塵」は「六境」、「色声香味触法」ですね。眼耳鼻舌身意が外界と触れて感覚というシンボルを作ってしまうんですが、甘かったり眩しかったりヌメッとしていたり臭かったり不快感なのも、意識をのぞいて実は五大に分けられるんですよね。間違っても志那化(東洋思想化)しない方がいいかもしれないです、後々困るかもしれないので。でも所詮、「行」を見極めるシンボルなので、どうでもいいことかもしれませんが。それぞれの感覚器と五大との相対は「眼覚」は「火」、「聴覚」は「空」、「嗅覚」は「地」、「味覚」は「水」、「触覚」は「風」だそうで、当てはめてみると、そう、その通りと思えるかもしれません。そのお釈迦様のいた時代の科学というか文化の中での認識が仏教のベースになっているであろうことは想像に苦しくなく、その五大の相対はアーユルヴェーダがヒントに・・・当時の科学に近かったんじゃないかと思えてます。そもそも上の五大と感覚器の相対は禅宗かどこかの方が書かれていたのをメモっておいて見直してみたらスッキリと受け入れられたワケです。「小空性経」並のスッキリ腑に落ち加減でした。腑に落ちれば何でもいいのであくまでもヒントと言うことにしておこうかと思いますが、拘りすぎても単なる執着なので、適当にメモして試してみる程度で納得いかなきゃ捨てていい話(自灯明法灯明)でした。

おニューのPC(中古だけど)

昨日はあの金閣寺にご尽力された方が亡くなられたそうで、今日は天台座主様が亡くなられたようですね。瀬戸内寂聴さんもつい先日ですが、時の人なのでマスコミがざわざわするのも仕方ないかと思ったんですが、お二人に関しては意外でした。まぁこんな反応したのは、今日は日中ずっと地響きすごくて、先日の地震の時も直前は地響きしていたなぁと。お釈迦様が亡くなられたとき、天地も悲しんだといいますからねぇ。ざわざわしてしまいますが、昨日都内に出たとき偶々寄った不忍池辯才天のお堂が開いてまして参詣してきました。不忍池辯天堂って実は寛永寺さんで、寛永寺さんといえば天台宗で徳川家墓所もあるわけで、天海さんの肝煎りと言っていいのかもしれませんが、徳川家って増上寺を見ればわかると思いますが元々は浄土宗が菩提寺で、戦乱開けてのその当時ですら(客観的な歴史として)権力との結びつきのあった宗派の姿がみてとれたりします。

浄土宗の宗紋って月影杏葉らしいんですが都内の浄土宗の寺院では三つ葉葵の御紋をよく見かけるもんですから(「ひかえ~!」の水戸黄門さんのアレの紋です)、寛永寺さんでも同様に三つ葉葵の御紋で無意識に浄土宗だと思っていました(苦笑)。最近になってこの二つの宗派で行ったり来たりしていたことを知ったわけです。

このご時世でチップの値段・・・集積回路のことね・・・が上がってるらいいのでパソコン自作している私的にはしばらく様子見だったんですが、そんなこんなでヤフオクでパーツ集めて組み直しました。超ど安定、先日まで起動の怪しい挙動が嘘のようです。CPUとM/Bとメモリ買って十万超はねぇ・・・・余裕作らない無理(ちなみにその時勢でいいスペックでチョイスしておかないと結局ちょこちょこ変えることになって倍にお金かかるんですよね、そうなりそうな予感)、というか、この数年ソフトすら買えず更新できないでいたのに・・・オークションサイトで中古という形でいろんな意味で多方から工面して新品でなくて中古という再スタートとなりました。とはいえ、超ど安定しているので、まぁいいでしょ。ついでで都内ふらふらして1万5千歩あるけて、あいてるところ見たことなかった不忍池辯天堂もちゃんと参詣できてよかったよかったな、話のついででなんか時事ネタが絡んだということでして。

そして、工面したので当面小旅行などはできなくなりました(笑)

びっくりしたのは昨日秋葉原のパーツショップに行ってビデオカードがとんでもないお値段になっているのに気がつきました。最近のCPUってビデオ機能がついてますので、別途ビデオカード買う必要があまりなくなってきたとはいえ、ボトルネックやら負荷分散をやっぱり考えてしまいますからパーツ探しましたが現実的じゃないビデオカードのお値段にびっくり。わたしゃとっとと退散ですわ、これ。チップ(・・・集積回路ですよ・・・)の不足とは確かにあるんでしょうが、たった数年でこんな値段はありえねぇなと思って調べてみるとお宝探しですか。。。買いあさりっていやぁ中華マネーで、結局、権力ってお金なんですかね。使い方間違うとやっぱり暴力にしかならないですよね、お金と権力。

私信

先に、ご気分を害し方や関係者の皆様にはお騒がせして申し訳ありません。こんな私ですが、末席を汚させていただきます。

すでに解決済みのことではありますが、内容を残してほしいとの要望があり、掲題のごとく「私信」として残すものです。どうぞ読み飛ばしてください。

以下は、先日のブログに書いていた削除部分です。少し手直しもさせていただきました。

“私信” の続きを読む

11月2日は父の命日でした。

今年は十五回忌となるようです。父は死の前日まで酒をあびる程呑み呑まれ、私と喧嘩もして彼の世に去りました。東大出身のエリートで大蔵省(現在の財務省)に入省して、仕事に関しては「馬鹿」がつくほど真面目で嘘をつけない人で結局はエリート街道から振り落とされた人でした。天下りが問題視され始める直前でしたから、引く手あまたでないにしてもそれなりに下って、しばらくすると、衆議院の職員として公務員としてとある室長を努め、最期は会計士としてお棺に入って家についたその日にも仕事先から手紙が入るなど『The仕事人生』の人だったわけです。欠点は内弁慶でお酒と暴力、家でお酒が入ると気が大きくなって暴れるという、「不飲酒戒」でいわれる放逸を絵に書いたような人だったんです。幼少期から毎日のように「酒に呑まれてクダを巻く」姿を刷り込まれて来ましたので深い傷となって、実は心中では酒癖の悪い人を見ると無意識に恐怖を感じます。そして私は一般人以上に「お酒」「禁酒」には理解を示す一方、厳しい人だと覚悟しておいていただければと思います。

当時、一旦仏教の思想をすべて否定し、何もないところから「無から有を作る」と信じてIT業界にいた私でしたが、この父の死は私をその仏法の世界に戻すには十分でした。弥陀来迎とはたくさんの絵になっている様に、父の枕経では紅黄金色の阿弥陀さんが迎えに来ていました。心の眼に写った姿ですから他の人に話しても致し方ないことですし、ずっと今まで黙っていました。前にも書きましたが、私自身は阿弥陀仏って大っ嫌いなんですよね。見えもしないのに、納得していないのに、信じろという方が土台無理な話で、仏教の歴史も掘り返していくと、北方に伝搬した仏教は一旦、途切れた仏教であることがわかります。それは禅宗を除いて、龍樹菩薩に祖師に求めて、その前がいない=釈迦にたどり着かず、残念ながら大乗仏教は正当な法嗣のない流れであることがわかってきます。これは一部の宗祖は知っていて血脈や祖師の龍樹から始めていることを見せて無言で伝えてきたことだといえます。龍樹菩薩伝を読みますとその無茶くちゃさが面白いのです。ーガールジュナが恐れていたものは権力ですが、よりによって兵士の隊長となり、逆に権力を利用して仏教を広めるわけです。他の仏教徒が読んだら非難轟々ですね。

知れば知るほど大乗仏教に残念に思いがしてしまいます。見方を変えると大衆信者を集めるのに書かれた初期の経典群であったことがわかります。そんな極論・極限の中で座っていて出した答えが、曼荼羅中西方に坐す阿弥陀如来(妙観察智)でした。四智の何れが欠けても四禅が完成しないことを感得させられました。これが、お馬鹿なふりをして「阿弥陀さんにおまかせします」の真相です。唯識素晴らしいとも思いましたし体感して完成をへの手がかりをいただけたころから、大嫌いだったはずなのに、「阿弥陀さん」に負けて頭を垂れてしまうような感じもありますが、とでも清々しく受け入れられたわけです、目指す完成に向けて。

古いお釈迦様の仏像や阿弥陀如来は壺を手にしてます。あれは甘露が満たされたもので「死の恐怖を取り除くもの」という方便です。葬式仏教もこれがないと成り立たなくなる可能性もあります。そして、現世で仏界に届かない供養の想いを変わって供養してくださるのも阿弥陀如来ということも言えます。なので持念仏はそのままで阿弥陀さんのお力をお借りする感じでしょうか、なので五智いずれも大事であり両界曼荼羅の大切さが改めてわかるようになります。

話は少し変わりますが、私が東洋医学系国家試験を受けた裏には、当時得度を済ませてまして、同業もやられている(医方明といい五明のひとつで灸は日本において弘法大師が開祖)という事実までありますので、そんな資格を持つ阿闍梨さんに、勉強して東洋医学業の国家試験を受けるべきか、いわゆるまちなかで横行している無国家資格(民間資格)「整体」を目指すか迷って相談したことがあります。「仏法を目指すものが、国家試験もとおらないで、そんな嘘つきみたいな泥棒みたいなことするな!」とお叱りを受けました。だからこそその資格を完全に修めたワケです。それは自分のためでなくて他人のために生業を提供するのに認められたものを修め提供すべきであることを自身の責任において腹に決めたからです。年齢は関係ありません。