【AC・トラウマからの開放を目指して】父の終焉

「戦前の家長制度」の影響か何かは知らないが「一番風呂」を誰が入るのかで争うというくっだらない慣わしがあった。こんなことが日々の口論の口火を切ることになる。
15年前、11月に入った頃、いつものごとく口論となり、今日の酒宴の肴が「風呂の順番」となったのはいうまでもない。
さてその翌日昼過ぎから父母で口論を始め、のそのそ外に出ようとした父に、母は「あなたは馬鹿じゃないの?」「そんなんで行けるわけないでしょ」と散々の罵声を浴びせながら、その日、すでに弱っていた父は搬送先の主治医のいる病院で息を引き取った。
叫喚地獄の日々に終止符が打たれたわけだが、当然前日の「酒宴の肴」の怒りもあり「帰って来るなバカが」の望みがかなった日でもあり、苦い想いを未だに抱くこととなる。

 


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:G案件:「トビラ」事件

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

 

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:エビフライ事件

【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:恐怖支配

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について


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【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:「トビラ」事件

担任G教員の強肩は様々なところであったらしい。私は先にも書いた通り「問題児だった」のだろうと確信した事件でもある。

卒業アルバムの台紙イラストは学年全員で描いたものから選考されるというのはよくある話。
さて、後で聞いた話だったのか何のタイミング聞いたのか思えていないのだが、実はその選考に最後、私の作品が残っていたらしい。
担任G教員の私に対するネガティブイメージを理由に選考の最後落選したというウワサを耳にしている。私にそれを聞かせる必要ってあったのかわからないが、共同責任というのであるならばこれが社会であり会社含む組織であり人となり他者をさらに信用できなくなったトラウマの一つだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:G案件:恐怖支配

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

こうして、家では毎晩の父の酒宴の恐怖が続き、学校でも縮み上がる思いで、ひたすら心を真っ白に保ってただただ時間のすぎることを願い続けた。
「今日も私のせいではなかった」「今日も無事くぐり抜けられた」
そして帰ってきて同じように晩食時を過ごし、常に過緊張状態の中すごすこととなる。家でもどこでもコード・レッドの危険が終わることはな区、私の周りでは常に危機は状態にあり、それにアラートを上げることもできなかった。この反動が出るのは2年後である。
保護者会では担任G教員による恐怖支配のことをまことしやかに正しいかのように説明していたのか、PTAも保護者からも文句の一つもやり過ごしていったようだ。ちなみに母はPTAの役員で、担任G教員にとっては何かしら「ちょろい親」だったのかもしれない。被害妄想になるが、私が「問題児」と指摘されていたから何も言えなかったのであろうことは後々想像に苦しくないことである。次の事件さえなければそう思うことはなかったろうけれど。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について


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【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:恐怖支配

担任G教員の恐怖支配は卒業まで続いて釈然としない傷だけを残した。

「お前ら、絶対許さない」
「私はかつての卒業生からは感謝されており、私は正しい」
担任G教員の言い分。
何かクラス内の過ちは、連帯責任と称して都度全員の前、下手すると全校生徒の前で吊し上げられ、時には「びんただ」と暴力で粛清され、服従を強要され続けられた。
親に言っても、すでに手を回していて囲い込みが終わっているため、孤立した教室の出来上がりとなった


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:G案件:エビフライ事件

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

洗脳の手法から以下のことがわかる

  • さも正しいことをしているように装う:①安心…理解者・支援者だと安心させる
  • 「ボイコットするならやってみろ」:②驚き…占いなど予想を的中させたり、心の底を言い当てたりするトリックを使う
  • 「他の卒業生からはみんな感謝されている」:③嫉妬…他のメンバーを登場させ互いに競わせる
  • 他にも「親には私から今回の件説明しておく(ので、君らからの声は無駄だ)」:④囲い込み…家族や社会から分断、帰り場所をなくす

すべてがこの問題はこの最初の事件に帰結していって、更には、これを1年以上かけて攻め続ける必要があることなのか。甚だ疑問しかない。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】G案件:エビフライ事件

G案件は小学校5・6年生の担任・女教員Gによる2年間続く一連の「恐怖支配」教室の話となる。

小学校5年生の担任・女教員Gになって数ヶ月が経過したあたりのことだったと思う。G教員は他校から赴任してきた新しい教員で、それまでシャキシャキはしていたものの温和を装って一見すると優しい先生風であった。
クラスメイトが給食のエビフライを残してしまい、口もつけずに残飯処理に出したことに始まる(確定ではないがHくんとする)。
G教員はそれを見るやいなや「誰だ?」とし、小言から始まり、「名乗り出れないなら」、今度は、「目をつむって挙手をしろ」という。散々プレッシャーをかけて震え上がってしまったのか誰も手が挙がらなかったという(私は真面目に目をつむって待っていたので実際どうだか知らない)。
G教員はこうはじめた。「誰も名乗り出ないのであれば、お前ら全員、連帯責任だ」「絶対に許さない」「卒業まで続ける」と。
この後、卒業までの1年半の間、この件をネチネチ追求するとともに、「連帯責任」と称して、何かにつけて大げさに騒ぎ続けられることとなった。
G教員は何かにつけて、自分を正当化し続けた。「他の卒業生からはみんな感謝されている」「ボイコットするならやってみろ」「お前ら全員ゆるさないからな」。ことのつまり他の学校でも同様の「連帯責任論」で児童を小突き回してきたということだそうだ。

【AC・トラウマからの開放を目指して】「連帯責任」について

 


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:Fさんに手を上げる(小学校4年)

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

私は早生まれで、小学生の当時、記憶のある始まりからずっと学年一番身体が小さく身長も低く、「前ならえ」肘を上げ腰に抱えた記憶しかない。
いじめられた記憶こそないのだが、多分、学校の教員には問題児視はされていたのだろうかあまり雰囲気的にうけ良い児童でなかったと認識していて、すでに自信を失ってしまっていたことだけは覚えている。
それだからなのかこの事案については何ら追求を受けた記憶も残っていないし、何ら確認する手段はない。
実際に面白がって追いかけたら予想外の展開になったのかもしれないし、小学校を卒業するまで教員からを除き同学年の子からいじめられたりした記憶はない。ただ、今なら別の手段を取って行動していただろう事柄でトラウマとなって残っている記憶の一つだ。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】Fさんに手を上げる(小学校4年)

小学校3年だったか小学校4年はずなのだが、担任の先生すら思い出せないある日の出来事である。

当時クラスメイトだった、ほりの深い目立つ顔立ちの女の子Fさん、話した記憶もほとんどない。
ある日の下校時、誰だかよくわからないが背中にピッタリくっついてくるような後を追ってくる人がいた。私は恐怖に陥りパニックになりながら後ろに振り向きざまに「後ろ追っかけてくるな!」と殴ってしまう。
後ろのついてきた人が、Fさんだと知っていたのか知らなかったのか今思い出してもよく覚えていないが、一瞬振り向き確認して、更に次の一瞬で手を上げたのかもしれない。
殴った後、ダーッと相手が逃げていったのはよく覚えているが、同時に私も急いでその場を離れた。ただ追いかけられているようで怖かった記憶である・・・ただ事後の記憶が全くいない(少し「怒られた」ような気もするのだが・・・記憶にない)。


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【AC・トラウマからの開放を目指して】《背景》:記憶の三(小学校低学年)

「《背景》:」には実際の背景だけでなく愚痴も含まれるし関係状況の変化によって反応も変わる為、トラウマやACの記憶に並列して書くのは不適当であると感じ分けることとした。

小学校二年生のことだという根拠は、好きだったE先生から呼び出されたことが記憶に残っていて、注意を受けた記憶もあるのだが、事実確認された程度であったのかもしれないし、しこたま怒られたのかもしれないしその辺りはいまいち覚えていない。ただ悪気はなかったことと、子どもがしたこととはいえ、おそらく生まれて初めて、人に怪我をさせてしまった記憶であり、本来ならば反省と遺恨に基づく記憶であってもおかしくないのだが、今考えてみると特に暴力に対しての反省が欠如していたんでは?と思い起こされることだったりする。当初はそれがなぜなのかよくわからなかった。

後にDさんと何度か話したような記憶もあるのだが、被害者と加害者当然の結果というか、意識的には互いに避け合っていたような形となった。

兎にも角にも、Dさんには改めて謝罪を残しておきたいと思う。ごめんなさい。「子どものしたこと」「過ぎたこと」とはいえその時の怪我が後のBさんにどんな影響を与えたかわからないことと、あり得ない恐怖にさらしてしまったことは、「過ぎたこと」では済まされないことだと思っている。


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