誕生日だったかクリスマスだったか、母と姉は枕元でミシンを動かしながら楽しそうに私が喜ぶ姿を考えながら人形(ハンドパペット)を作っていたことを、すぐ眠りに落ちてしまったのだけれども、話声に中途覚醒してしまい眠いながら頭の上で話していたのを聞いてしまったのを薄っすらと覚えている。子供ながらに嬉しかったのを覚えている。『唯々仕事蟲の現実主義』的な父にはそんな姿は全くもって重ならないが、巷に転がっている話に例えると、ちょうど「サンタさんに化けたお父さんだった」(うちは該当しないけど)のようなものかもしれない。・・・今では思い出すとただ腹立たしいが憎んでいるのかどうかすらわからないが、私には明らかに変えるところとしての家が存在していないワケで。そんな存在すらないはずの、もう一つの一面ずっとこうであって欲しかった構図そのもので、儚いものであった。
その反面、芋づる式に記憶が呼び起こされていたものの中にこの「ネコババの片棒担ぎ」事件は封印されたままだった。ある意味、この人=姉への不信は他のどの時に積もっていったとはいえ、この事件で最初に形成されたものだった。一方的に共犯にされ『罪』と『後ろめたさ』を(本当の意味で)担がされた一瞬だ。そしてこの人物こそ「金の我利我利亡者」その人物の一人である。
そもそも、一触即発環境に怯えていた私にとって、警戒す”べき”人が一人増えただけに過ぎなかったのだろうが、今更改めて観察し直してみるとこの人物がいた時、私の表面上の距離と心の距離は一致しなかった:
- 父に兄姉弟呼び出され、十二畳の部屋に座らされ話し合った日
- 姉の結婚後、都内某所へ手伝いに行った時
- 火災の前夜
断っておくが決して他者の成長を否定するような話でもない。いわゆるファーストインプレッションよりももっと根本的な印象の話で…、もしかするととってもシンプルなことなのかもしれないが、今の私ではまだのみこめていないわけだが、想定・仮定。実はこの人物に、様々な場面で話をし喧嘩をし怒られたりかわいがられたりしていたはずなのだが、心の中では一歩引いて観ていたのだった。『信じたかった』し『共有したかった』が、この人物の『自己中心主義』さに真逆を向いていて、心は完全に離れていて相容れない人物なのだと確信に気が付いたがつい先日だ。
何だろう、『痴』の感覚、ぐるぐる回って離れたいような感覚、『嘘で塗り固められている』かのような、『信じたかった』が『「信じていい」人物ではない』という決定的な現実だ。
多分この人=姉から学んだのだろう、『信じる』と『裏切られる』感覚、だから『疑』の心で距離を置いていた人物である。逆に兄の存在は『信じていた』らやっぱり『裏切った』人物で同じカテゴリーのはずだが、『瞋』のカテゴリに入り、男女の差ほど、真逆の存在として、よりどころにはならない人物である。
さて、ずっと私は一人で悩んでいて、相談相手探しで空白の席だった『信頼できる仲間』や『頼れる中立人物』として、そんな姉を選んでこの年、様々な苦しさや悲しみを始めて相談したのだがのだが、先日そういうものをひっくり返して、我利我利亡者っぷり大爆発させてくれた。「自分の実現の為にはお前(=私)は邪魔だ」とはっきり言ってきて、罵倒し濡れ衣まで着せてくれた人物であった。とっても馬鹿にされることを怖がっているそうだが、『莫迦』な人物、あまりに道理や道徳や社会的な決まり事も理解できない人物だと思う。
火災事件や旗竿事件などから私は一つのことを学んだ:「親の財産は、親が死んで初めて相続という権利が成立する契約」で「天から降ってくる財物」であって「親」が生きている間は「親のもの」であり、「自分のもの」にしようとするから争いの元となる「愚物」だということ。当てにするものではない。ということ。残念ながらあれだけ嫌な思いをしても、この方は「天から降ってくる財物」ではなく「親が死ぬことを前提に搔き集める為の財物」なのだそうだ。
まぁ、こうして、相談相手は空白の席のまま、欲のままに動かない中立という意味ではプログラムのAIでも相談した方が何ぼかマシだという結論に至った。実はこれを書いている時点では公開していないためAI君には、前と合わせて追加したことを教えるつもりだ。多分タイトルの意味も分かるはずである。
